作品の舞台となった大平宿

 大平宿を舞台にした文学作品や映画などで一番有名なのは山田洋次監督の「隠し剣、鬼の爪」ですが、次いで有名なのは「木枯らし紋次郎」ではないかと思います。1997年出版の「木枯し紋次郎 8 命は一度捨てるもの」 (光文社文庫)の中に「狐火を六つ数えた」という短編が収録されています。その中の大平街道についての記述を引用します。


 大平街道がなければ、木曽路と伊奈地方の往来は大変なことになる。仮に妻籠から飯田まで行くとすると、まず北上して塩尻へ出なければならない。妻籠から塩尻までが二十四里である。
 さらに塩尻から三州街道へはいり、飯田まで南下する。塩尻から飯田までが、十九里であった。妻籠から飯田までの距離が四十三里、約百七十二キロメートルということになる。一般の旅人の足で五日間はかかってしまう。
 それを大平街道が、最短距離で結んでいるのである。八里だから朝早く妻籠を出れば、日暮れ前には飯田につくのであった。それだけに、悪路を承知の上で、利用する旅人が多かったのだ。
 ただ単に飯田まで行くのではなく、三州街道へ出るという旅人が大半であった。三州街道に出れば東海道、甲州街道へも近いのである。旅人達は風に吹かれ、南北の眺望を楽しみながら、苦も無く悪路を辿るのだった。

「木枯し紋次郎(八) 命は一度捨てるもの」(笹沢左保)中の「狐火を六つ数えた」より

※1 時代背景は天保11年か12年(1840年か1841年)と見られる

※2 三州街道とは、伊那街道とも呼ばれ、中山道の塩尻宿から辰野、伊奈、駒ヶ根、飯田と南下し、阿智村、浪合、平谷、根羽の各村、杣路峠を経て三河足助を経由し、岡崎で東海道に合流する。現在の国道153号線はほぼこの道筋をたどっている。

交通の要所としての大平街道が書かれています。

八里(約31キロ)は一日で行けると記されていますが、山道の悪路であればかなり厳しい道のりになります。平地であれば30キロは確かに一日であるけますが。ということで中継宿ができたのが大平宿の一つの目的であったと思われます。中継の宿でしたが、戦時中の「飯田市内では麦を食うが、大平宿では米を食う」と言われるほどの隆盛をほこったと言われます。今に残る建物群の立派さがそれを物語っています。

 この大平街道を紋次郎が歩いた感想が以下です。

 北に連なる山々は、峨々(がが)たる峰の波であった。駒ヶ岳を中心として経ケ岳、大棚入山、茶臼山、剣ケ峰、空木岳、南駒ヶ岳、越百山、念丈岳、案平路山、摺子木山などが北から南へと峻険な山容を見せている。
 南側の連山はやや女性的で、全般に低くなっていた。だが、雲海が見事だった。見渡す限り、白くあるいは灰色に雲が広がっているのである。その上に、山頂の部分が転々と突き出ている。まるで海の上に点在している島のようであった。
 左を見れば、秋空に稜線を書く陽性で鮮烈な山岳の図が一望にできる。右を眺めれば、墨絵のように渋みのある雲海の光景が目に入る。一筋の街道を歩きながら、まったく異質な眺望と視界を楽しめるのだった。
 こうした街道は、あまり多くない。初めて通る旅人たちは、思わず深呼吸をしてしまう。これほどの広井空と巨大な空間を知らないためであった。無限の眺望と荘重とも言える景色に圧倒されるのである。
 (中略)
 谷間は樹海で埋まり、山の斜面は草に被われている。名も無い花が道の脇で震えていた。さすがに風はつよく、山の斜面が草原のように緑に波打っている。青い空には、ちぎれた雲が眠たそうに浮かんでいた。

「木枯し紋次郎(八) 命は一度捨てるもの」(笹沢左保)中の「狐火を六つ数えた」より


 離村時点での写真などを見ると、大平宿は今に比べてかなり開拓されています。離村当時に唐松を植えて建物を守ったという話もあり、この紋次郎の描写も、木々が生い茂っていないので可能な風景だったのかもしれません。しかしながら「雲海の中に山頂の部分が転々としている」というのは現代の雪の大平街道での登山で感じました。
 また本短編のストーリーはかなり陰惨に私は感じます。ちょっと現代の小説では出版をためらう要素があります。木枯らし紋次郎は映像化が多くされていますが、本短編「狐火を六つ数えた」については映像化の際にタイトルや内容もかなり変更になっており、これも大平街道(大平宿)を抜け、飯田に到着したという舞台設定と合致するのでは無いかと思います。本来、山道は怖い物ですがあえて山道について美しく書き、町は安心する物ですが町についてはやや沈鬱に書く、という二面性の対比が起きています。この結果、この大平街道ののどかで美しい描写が、町での陰謀を引き立てているように感じます。

 あー趣旨がちょっと違ってきましたが、本書籍の描写によって大平街道の美しさを感じていただければ幸いです。

 そして残念ながら「木枯らし紋次郎8」は絶版のようです。電子書籍では読めるようですが。


「木枯し紋次郎(八) 命は一度捨てるもの」(笹沢左保)
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