イベント・ニュースなど



民家の学校・写真

2016/08/03 3:40 に 大平宿管理 が投稿

民家の学校の写真をいただいて、こちらでも掲載しようかなと思いましたが、むしろ以下のURLを見て頂く方が話がはやいかなと思います。

こちらが日本民家再生協会 民家の学校の三日間でした。


大変楽しかったです。

7/16~18 民家の学校

2016/07/25 0:40 に 大平宿管理 が投稿   [ 2016/07/25 0:48 に更新しました ]

7/16~18まで、日本民家再生協会、民家の学校が大平宿での原生活の体験のためにいらっしゃいました。同団体は、火興しを自分でやられたり、江戸時代の食生活を楽しんでらっしゃったり(ビールとワインとウィスキーは例外)、一部参加者からは「肉が食いたい」との声が上がっていましたが、まあ、しょうが無いですね。

何にもまして同団体がよいのは、古民家にとまるということを楽しんでやってらっしゃるところです。正直あまり綺麗とはいえないところに、大平宿の趣旨をご理解いただき積極的にとまり、昔通りの生活をするということを楽しんでやってらっしゃいます。

火興しとか木材のはつりとか、手斧での薪割り、手打ち蕎麦、五平餅作り、そして当時大平宿に住んでらっしゃった方をお呼びして昔の生活についてのお話を伺う、一種夢のような時間を過ごさせていただきました。

大変楽しかったです。また来年お待ちしています。

写真整理中です。とりあえず、「はつる」という言葉がわからない人が多いと思いますので、こちらがはつっている最中の写真を掲出します。

はつる男(衣装は自前)

県道八号線(大平街道)通行止めのご案内

2015/08/28 17:46 に 大平宿管理 が投稿


災害復旧工事のため、大平街道は平成27年9月1日(火)~12月下旬の期間全面通行止めになります。

ことしいっぱいは清内路から入るのか、とすこし大平宿が遠く感じますが、むしろ大平街道を復旧工事してもらえるということがありがたいです。
こんなインフラの維持をしたくなかったから廃村になったろうに、と思い、関係各位のご助力に感謝申し上げます。


藤屋の建具と八丁屋の軒

2015/06/08 4:45 に 大平宿管理 が投稿   [ 2015/06/08 4:47 に更新しました ]

さて、6/6、7と大平宿をのこす会にて大平宿で作業を行いました。

幸い天気もはれ、大変きもちのよい作業でした。
今回は草刈りと、煙突のすす払いを行いました。たとえばふかみ荘のお風呂の煙突はほぼつまり掛けていて、やってよかったなと思いました。各家だいたいフライパン一杯くらいのすすを払いました。

さて、雪の重みでくねっていた「藤屋」の正面の建具ですが、飯田市にて修理頂きました。やっぱり建具二枚につき、柱は一本必要と言うことなんでしょうね。ということで柱から新設され、また周りの建具にも色を合わせていただき大変綺麗になりました。つっかえなく扉が開く! という当然のことに感動します。


ついで、垂木の一部に破損があった八丁屋についても垂木の下に補強を行いました。

今から冬支度の重要性を感じます。

ぜひ皆さん見てみてくださいませ。

藤屋の戸。なめらかな動き。

半年前の模様。見比べるとすごいですね。


八丁屋の軒下にも柱がつきました

富士見十三州輿地全図

2015/02/23 21:58 に 大平宿管理 が投稿   [ 2015/02/24 0:38 に更新しました ]

イベントでもニュースでもありませんが、ふと調べていておもしろかったのでご案内します。

富士見十三州輿地全図です。




天保13年(1842年)に書かれた地図です。富士山を眺望できる関東の八カ国と伊豆・駿河・遠江・甲斐・信濃の五カ国を収めた大型の地図です。町村・街道・河川などが詳細に描かれています。富士山が特徴的ですね。




こういう古地図を見るとつい大平宿を探すのですが、さて、ありました。


(クリック拡大します)

当時、一般的に伊那谷(飯田)と木曽谷(妻籠宿)に移動するためには、

1、塩尻経由(権兵衛街道)おおよそ43里
2、清内路峠経由
3、大平宿経由 

という三つのルートがありました。こちらの地図には上記の大平街道と清内路峠道が示されています。地図をみると、どちらも関所がうかがえます。清内路峠道は、明治期に基礎となる道が敷設されたようですが、すでにこの地図には記されていますね。ただ、当時、清内路峠道は大平街道以上の悪路で、どうも裏通りとしての要素を持っていたようです。

 その判断材料になるのは、江戸の末期に清内路峠を「天狗党」が西上した話です。天狗党は水戸から京都を目指しているのですが、その天狗党が越えたのが清内路峠道でした。水戸藩の内紛に敗れ、京都に向かった水戸浪士・天狗党は、飯田藩よりある依頼を受けます。幕府より討伐依頼の出ている天狗党について、飯田藩との無用な衝突を避けるために間道を通って欲しいとの依頼でした。この結果、利害の一致した天狗党は、三州街道(塩尻から岡崎にいたる街道)を通ろうとしていましたが、間道を歩くことを決意します。間道の通行であっても、飯田藩は幕府からの叱責を避けるために、なんどか大砲を撃ち戦うふりを一応したようですが、事前に話がついていたようです。

 このときに、飯田藩が選んだ「間道」は、清内路峠道でした。結論を先に書けばこの結果、飯田藩は、清内路関所預かりお役御免(以後、高遠藩の管理)、飯田藩1万7,000石のうち2,000石を没収、清内路関の番頭・斉藤長右衛門ら2人の切腹、藩主は謹慎という沙汰を受けます。関所は場所によりけりですが、警察権と徴税権を兼ね備える重要な権利で、それを他藩のもの、しかも飛び地の高遠藩の管理されたということになります。

 結果論になりますが、飯田藩は大平街道と清内路峠道の重要性を天秤にかけ、大平街道をのこしたとものとも判断できます。天狗党がきた時点で、飯田藩には戦力も戦意も無く、いかにして幕府からの叱責や没収を少なくするのかを考えていたはずです。飯田藩よりも大きな高島、松本両藩の敗戦の報が入ってきており、戦えば必ず負けるという部隊が来ているのですから。結果、飯田藩は飯島宿まで出向き、城下を通らないように依頼し、しかも金品を送って調整したようです。そのときに、より飯田城下を通らなくてもよい大平街道を案内せずに、清内路峠道を案内したのはあきらかな飯田藩の意思を感じます。地図をみていただければわかりますが、南下してくる部隊が飯田城下までの街道をすこし外れて歩けば、飯田城下に入らずにそのまま大平街道に入れます。それに対して清内路峠道は「おまえ、明らかに天狗党の通過を見過ごしただろ」と幕府に文句の種を与える事になるからです。そのリスクがあっても清内路峠道を通したという、当時の大平街道の重要性を示した一つの話なのかもと思います。

 さて、話がずれました。この江戸時代の地図で見て頂きたかったのは、ただ単に江戸時代の地図にも大平街道があります! ということだけだったんですけどね。飯田藩~市ノ瀬~大平~広瀬~蘭(あららぎ)~押牛~妻篭の街道がはっきり見えますね。市ノ瀬の上にある記号は関所を意味しています。今、市ノ瀬とは、冬期通行止めのゲートのあるあたりです。昔関所があったあたりにやはり現代のゲートがあるんですね。

夏のゲート
冬・閉鎖中のゲート

南信州新聞に取り上げて頂きました

2015/02/11 23:48 に 大平宿管理 が投稿

以下、2015/02/12付け南信州新聞に掲載して頂きましたので、ご許可をいただきましたので、こちらにも転載致します。
一面の左上という極めてよいコーナーに掲載頂きまして大変嬉しく思います。

会に興味を持って頂ける人が増えるといいなと思います。




2/7、8 雪下ろし模様

2015/02/10 2:24 に 大平宿管理 が投稿   [ 2015/02/10 2:26 に更新しました ]

2月7日、8日、大平宿の雪下ろしを行いました。

 市ノ瀬のゲート手前は積雪は無かったのですが、ゲートを越えて20メートルですでに10センチくらいの積雪。車で行けるところまで行き、その後徒歩にて大平宿を目指します。

 12月の冬支度よりも参加人数がおおく、かつ、荷物や服装についてのノウハウもたまったため、今回のほうがかなり楽でした。神奈川から5名、東京から1名、駒ヶ根市から1名、飯田市から2名の合計9名の参加をみました。一般参加のかたは大半が雪山登山経験者で、むしろ一番足がおそく迷惑をかけたのは、大平宿をのこす会の者でした。皆様ベテラン揃いで、まったく初心者の私が先頭を歩くのはいかがなものなのか、私は肉体労働はせずにぼやぼやしていたいのですが、どうして私が先頭なのかと思いながら前日に焼き肉と一緒に飲んだビールやら、三日前に嫌なことがあったために大量に飲んだ日本酒を後悔しました。しんどいんですよ!

 積雪は、写真をみていただければわかりますが、「ガードレールが完全に隠れる程度」、多分、腰くらいの積雪です。比較的しまった雪ですのでスノーシューで楽しく上れます。酒を前日に飲んでいなければ。



 そしてついた大平宿。街道よりも多くの雪が残っています。思わず息をのむ景色と「よくここまで建物が耐えてくれたな」という思いでした。参加者からは「よくがんばってくれてるよな」「すこしでも下ろしてあげたい」「かわいそう」と完全に擬人化して話している様がおもしろかったです。

(水道屋。建物にも入れない)

(下紙屋ははいれました)

 一般参加のみなさまの積極的なご協力をいただき、7軒のひさし部分の雪は下ろせました。大屋根は危険なのと、ひさし部分のほうがより緊急度合いが高いと判断してひさし部分の雪下ろしを実行しました。




 ただ以下の写真のように、完全に建物が沈下してしまい建具が変形しているところもありました。ガラスって結構割れないんだという思いもありますが春になったらみんなで修復作業をしたいと思います。また垂木の一部が積雪に耐えかねているところがあり、来年はすくなくとも冬じたくの時にきちんとつっかえ棒をいれなきゃと思いました。





 ということで、さーて暖かくなったら次は「屋根補修ワークショップ」だ。本職大工さんが陣頭指揮撮ってくれる予定です。みなさままた宜しくお願いします。

最後に、一般参加の方から頂いた夜景です。これが見れただけでも行って良かった。

登山。いつも失念しますが、大平峠の標高は1235メートル。
三十三観音のからすぐです。

絵に描いたような見事な倒木とそれを見てこまる登山者。












綺麗。綺麗だけではすまない現状もありますが、ひとまず綺麗。








紙屋。ここだけ構造がよわいところらしく、ここの雪下ろしを依頼される。

勝利。

不安なので行くことにしました。2/7、8 雪下ろしします。

2015/01/19 18:37 に 大平宿管理 が投稿   [ 2015/02/02 3:50 に更新しました ]

不安だ不安だといっていてもしょうが無いのでいくことにしました。

以下の日時で雪下ろしをします。

2月7日、8日(土、日)

多分人の身長くらいの積雪の中7キロ程度歩いて大平宿(現在停電中)に行き、雪下ろしをします。

しかしながらおおよそ札幌と同じ気候の大平宿ですので、現実的には雪山登山です

ということで、かなりハードルが高いボランティアですが、以下の条件に当てはまる方がいれば一緒にいきませんか? 

1、雪山登山設備を持っている
2、停電の大平宿で寝袋と布団で睡眠をとれる
3、あくまで雪下ろしのために行く
4、吹雪いたり行けなかった時点で終了

参加費は食料・飲料実費、ボランティア保険代金実費です。(三千円程度)

あなたの勇敢な参加をお待ちしています。なお、各種お問い合わせは恐縮ながらメールでお願いします。
kanri@oodaira.org






12/19時点の大平街道(県道8号線)。中部電力様より頂いた資料です。
12/19現在で1メートル程度の積雪。クリックして拡大してみてみてください。

春まで不安です

2014/12/24 20:18 に 大平宿管理 が投稿

大平宿は停電になりました。

倒木で、電線が切れたそうです。工事の方達が復旧に行ったそうですが、胸までの雪で、危険を感じたのであきらめたそうです。峠まで行けなかったらしいです。春まで、工事不可能との連絡が来ました。

うーん、我々も無理かな~。

雪下ろし参加表明の各位、また連絡します


12月20日、南信州新聞に掲載頂きました

2014/12/22 17:39 に 大平宿管理 が投稿

12月13日、14日の模様を南信州新聞に掲載頂きました。転載のご許可を頂戴しましたのでこちらに掲示いたします。紙面の都合上、レイアウトのみ変更をしております。


2014/12/20 南信州新聞 8面 クリックで拡大します


うーん、今の大平宿がきになります。雪が多いんだろうなと思いますしそしてそれをまた歩いて行くのか、行ったら同時に体力無くなっていて雪下ろしどころじゃないよなあ、ほんとかよ、とか思ったりします。まあ、わたしが自分で新聞記者に「雪下ろしやりますよ!」と調子よく言ったのが悪いですが、おかげさまで踏ん切りがつきました。


また同日、当会のあらゆる意味での支柱であった羽場崎事務局長について、ふれていただいたコラムが掲載されましたので、こちらも掲示します。朝日新聞で言うところの「天声人語」に相当するコラムです。
もう一周忌が目前ですね。彼の遺志を継げればと思っています。

2014/12/20 南信州新聞 一面

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