富士見十三州輿地全図

2015/02/23 21:58 に 大平宿管理 が投稿   [ 2015/02/24 0:38 に更新しました ]
イベントでもニュースでもありませんが、ふと調べていておもしろかったのでご案内します。

富士見十三州輿地全図です。




天保13年(1842年)に書かれた地図です。富士山を眺望できる関東の八カ国と伊豆・駿河・遠江・甲斐・信濃の五カ国を収めた大型の地図です。町村・街道・河川などが詳細に描かれています。富士山が特徴的ですね。




こういう古地図を見るとつい大平宿を探すのですが、さて、ありました。


(クリック拡大します)

当時、一般的に伊那谷(飯田)と木曽谷(妻籠宿)に移動するためには、

1、塩尻経由(権兵衛街道)おおよそ43里
2、清内路峠経由
3、大平宿経由 

という三つのルートがありました。こちらの地図には上記の大平街道と清内路峠道が示されています。地図をみると、どちらも関所がうかがえます。清内路峠道は、明治期に基礎となる道が敷設されたようですが、すでにこの地図には記されていますね。ただ、当時、清内路峠道は大平街道以上の悪路で、どうも裏通りとしての要素を持っていたようです。

 その判断材料になるのは、江戸の末期に清内路峠を「天狗党」が西上した話です。天狗党は水戸から京都を目指しているのですが、その天狗党が越えたのが清内路峠道でした。水戸藩の内紛に敗れ、京都に向かった水戸浪士・天狗党は、飯田藩よりある依頼を受けます。幕府より討伐依頼の出ている天狗党について、飯田藩との無用な衝突を避けるために間道を通って欲しいとの依頼でした。この結果、利害の一致した天狗党は、三州街道(塩尻から岡崎にいたる街道)を通ろうとしていましたが、間道を歩くことを決意します。間道の通行であっても、飯田藩は幕府からの叱責を避けるために、なんどか大砲を撃ち戦うふりを一応したようですが、事前に話がついていたようです。

 このときに、飯田藩が選んだ「間道」は、清内路峠道でした。結論を先に書けばこの結果、飯田藩は、清内路関所預かりお役御免(以後、高遠藩の管理)、飯田藩1万7,000石のうち2,000石を没収、清内路関の番頭・斉藤長右衛門ら2人の切腹、藩主は謹慎という沙汰を受けます。関所は場所によりけりですが、警察権と徴税権を兼ね備える重要な権利で、それを他藩のもの、しかも飛び地の高遠藩の管理されたということになります。

 結果論になりますが、飯田藩は大平街道と清内路峠道の重要性を天秤にかけ、大平街道をのこしたとものとも判断できます。天狗党がきた時点で、飯田藩には戦力も戦意も無く、いかにして幕府からの叱責や没収を少なくするのかを考えていたはずです。飯田藩よりも大きな高島、松本両藩の敗戦の報が入ってきており、戦えば必ず負けるという部隊が来ているのですから。結果、飯田藩は飯島宿まで出向き、城下を通らないように依頼し、しかも金品を送って調整したようです。そのときに、より飯田城下を通らなくてもよい大平街道を案内せずに、清内路峠道を案内したのはあきらかな飯田藩の意思を感じます。地図をみていただければわかりますが、南下してくる部隊が飯田城下までの街道をすこし外れて歩けば、飯田城下に入らずにそのまま大平街道に入れます。それに対して清内路峠道は「おまえ、明らかに天狗党の通過を見過ごしただろ」と幕府に文句の種を与える事になるからです。そのリスクがあっても清内路峠道を通したという、当時の大平街道の重要性を示した一つの話なのかもと思います。

 さて、話がずれました。この江戸時代の地図で見て頂きたかったのは、ただ単に江戸時代の地図にも大平街道があります! ということだけだったんですけどね。飯田藩~市ノ瀬~大平~広瀬~蘭(あららぎ)~押牛~妻篭の街道がはっきり見えますね。市ノ瀬の上にある記号は関所を意味しています。今、市ノ瀬とは、冬期通行止めのゲートのあるあたりです。昔関所があったあたりにやはり現代のゲートがあるんですね。

夏のゲート
冬・閉鎖中のゲート

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