大平宿とは


生活文化同人 2009年大平建築塾にて音声収録



生活文化同人 2009年大平建築塾にて音声収録


※ 上記は 2009年大平建築塾にて音声収録
   画・文:吉田桂二先生
   語り:益子昇氏


飯田市と木曽を結ぶ大平高原に、木地師の大蔵五平治と、穀商人山田屋新七が入り住んだのは江戸時代半ば、現在から250年ほど前のことでした。

標高1150メートルの大平高原は厳しい自然環境を呈し、移住した当初の7戸の住民は冬の豪雪や獣の被害のために、猟や木地師としてなんとか生活してきます。

大平宿は、高原の冷夏のため、米作ができませんでした。それでも少しづつ道を整え、いたるところに獣用の落とし穴をほり、畑を耕しながら生活していきます。そしてその動きを飯田藩も、現在にのこる上水道「井戸川」を掘削するなどして支援していきます。

19世紀の前半には、大平宿は飯田市と木曽を結ぶ交通ルートとして繁盛します。現在も大平宿の建物群にはそのころの名残である「せがいづくり」が残されています。せがいづくりとは、建物の二階部分を大きくせり出し、往来の旅人への文字通り軒先を貸すための建築技術です。

明治の頃には大平宿の重要性を行政は重く受け止め、大平街道を県道大平線とすることや、郵便局を置くこと、なりより定期バスの運行を開始するなどしてし て大平宿はさらなる発展をしました。
当時の飯田市付近の小中学生の修学旅行はほとんど大平宿を通過して奈良や大阪に向かったとのことです。

しかし、昭和に入ると中央道の開通や、国鉄飯田線の開通に伴い、物資の運送や交通は大きく変化します。車で二時間かかる山道のくねった道より鉄道や高速道路で移動することになります。これによって自然に大平街道の重要性はなくなっていきます。

また、大平宿の主要な産業である炭業についても、化石燃料の使用により集落の収入は激減していきます。


そして少しずつ住民は市街地に転出していきます。

そんななか、住民が最盛期の半分以下まで減った大平宿で中心部の民家4軒を消失する火事が起きます。
昭和 45 年のことです。これを契機に住民の総意として集団移住を決定しました。同 年の 3 月 9 日に集団移住の請願書を飯田市に提出。こうして昭和 45 年 11 月 30 日を持って、約 250 年続いた大平宿は 全住民の移住が終了し解散となりました。

そして、11月末の移住であったため冬の早い大平宿では、民家を壊さずに大急ぎで移住した家も多く残りました。
結果、このたまたま11月末に移住したという偶然が今日に建物を残しました。

昭和 48 年、集団移住から3年を経過したとき、中京の開発業者が大平宿での別荘開発 と会員制の民宿経営に向けて動き出しました。これに対し、飯田市の登山者を中心とする市民有志が観光地開発に反発する姿勢で動き出します。

開発業者が大平宿の一部の建物を壊してしまったことに対する憤り、大平の自然保護、飯田市の生活用水となっている水質汚染を恐れたためです。

当時、この反対する団体は「マスヤ会」を名乗りました。このマスヤとは、大平宿中央付近の建物名で、現在でも残っており宿泊可能です。その建物の中にひっそりと当時のマスヤ会の会員の名簿が板打ちしてあります。


開発計画自体は多方 面からの反発や、オイルショックの影響で業者の倒産などもあり、白紙撤回されました。

当初の目的を達した「マスヤ会」は「大平宿を残す会」と名前を変え、活動をしておりましたが、2016年9月11日に開かれた臨時総会にてその活動を終了することが決議されました。その結果、以降の管理は南信州観光公社が行うことになりました。

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